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はじめての貴方へ

はじめての方へ

  裾野純福音キリスト教会のシェパード(牧師)の横山です。当HPへようこそ、おいでくださいました。
このHPは教会へまだ、という貴方にぜひイエスキリストを知っていただきたい願いで作られました。私のクリスチャンになった体験談(証し)は牧師紹介欄でお読みになることができます。私の出生地や年齢も分かります。ある部分、情報公開させていただいて垣根を取り外したいと思っています。
また、ブログ ? シェパードの部屋で私の日常のできごとを綴っていきたいと思います。毎日の更新はむづかしいと思いますが、忍耐していただいて長くお付き合いいただけると感謝です。よろしくお願いいたします。
  私の“初めて”は、クリスチャンの方々がどんな人たちなのだろう?というところから始まりました。それから聖書、教会、イエスキリストという順番でしょうか。貴方はいかがですか?チャペルウエディングあるいはゴスペルというところから検索されてHPに入られたかもしれませんね。私たちに夢と希望を与えてくれる、そうしたものを大切にしてください。いつかきっとその夢と希望がイエスキリストを通して実を結ぶことができますよう、お祈りしています。お祈りってすばらしいですよ。神様は貴方の祈りにも耳を傾けておられます。と、いうことで初めての貴方に幾つかの事にについてご紹介したいと思います。

クリスチャン(Christian)
貴方は「クリスチャン」と聞かれたらどのような印象がありますか?私は牧師の自己紹介でも書いていますが、子どもの時の偏見でクリスチャンとは暗くて、堅くて、弱弱しい人たちという印象でした。逆立ちしてもクリスチャンにはなれないし、なる気持もありませんでした。ところがですね、最初に接触したクリスチャンは同じ高校の同級生とそのお兄さんでした。彼らは高校時代、生徒会役員をしていた活発な人たちでした。そして、将来に対する展望とビジョンを持った明るい青年たちなんです。これは私にとって“目から鱗”でした。先ず偏見をとりのけることです。
聖書に最初に「クリスチャン」という言葉が出てくるのは新約聖書−使徒の働き11章26節「−−弟子たちはアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」と記されています。それ以前は“弟子”です。「キリストの弟子」。弟子は師から学び(真似)成長して師と同じようになっていくわけです。Christianという言葉も「キリストに似る者」という意味があります。
後で理解したことは私が最初に接触したクリスチャン青年の中にキリストが生きていたということだと思います。どうしたらこういう人に成れるのかなと考えた時、彼らの部屋に聖書の言葉が紙に書かれて沢山はってあるのに気が付きました。

聖書(Bible)
バイブルはbiblia(書物の意)本の中の本ですね!私が最初に借りた聖書に関係する本は題名は忘れましたが新約聖書Iコリント13章愛の章と呼ばれる個所を題材にした本でした。キリスト教の結婚式で必ず読まれる個所です。「愛は寛容であり、愛は親切です〜〜」あなたもどこかでお聞きになったかもしれませんね。その、当時はウエディングに関わる聖書箇所とは露ぞしらずです。あまりにも綺麗すぎるというか‐一生懸命、頭で理解しようとしたのですが、価値観の次元が違い、わかりませんでした。
本当に聖書を聖書として読めるようになったのはクリスチャンになってからです。どう変わったと言うと、読み方が変わりました。前述しましたように最初は頭で読んでいましたがクリスチャンになってからは心で読めるようになりました。聖書は読み方で大きく汲み取るものが変わってきますね。

教会(church)
  ある時、下宿を同じくした前述のクリスチャンの方たちの部屋から讃美歌が聞こえてきました。マイナ−調のフィンランドで作られた讃美歌でした。(日本人のフィーリングにgood)それを聞いている時、何か分らないけれども泣けてきたんです。
それで、一度教会へ行ってみようか!という思いが与えられて、連れて行ってもらいました。緊張しましたね!作法もなにもわかりませんから――でも、皆さんたいへん親切でした。聖書や賛美歌もお借りしました。クリスチャンの方々はお互いを男性は○○兄弟、女性は○○姉妹と呼び合い、本当に親しい家族の交わりのようでした。牧師(プロテスタント教会では責任者・お父さん的存在)ご夫婦は親身になって私のことを心配してくださり、何時もお祈りして励ましてくれました。教会は愛の共同体なんですね。

イエスキリスト(Jesus Christ)
  先ほど、お祈りは聞かれると書きましたが、そのとおりです。クリスチャンでない私は祈り方もわかりませんでしたが、ある時、教会の皆さんが祈っている姿に胸を打たれることがありました。その祈りの真実さに驚かされます。それまでの私の祈りは自分中心で自己実現の祈りです。でもクリスチャンの方の祈りはご自分の事もありますが、他者のためのとりなしが中心です。そして必ず「イエスキリストの名によって」祈ります。名によってとは,その御名(みな)に祈りに答える権威をもっているということです。
聖書のお話しも最初は良く分りませんでしたが、「イエスキリストは私たちの罪のための身代わりとして十字架に掛かり、葬られ、そして三日目によみがえられた、お方です。誰でもイエスキリストを個人的な救い主として信じるなら救われます。」と、メッセージを聞きました。
それまで罪というのは一般的に言う犯罪とか人に迷惑をかけることなどを考えていましたが―祈りの中で自分が神様の前に罪人であることがわかり、罪を悔いあらためて、イエス様を救い主と信じ、初めてイエスキリストの御名で祈りました。最初は救われたという実感がわかりませんでしたが、じわじわと心の中から喜びが沸いてくるんです!人によって時間的感覚は違うかもしれませんが、必ず救われた体験(感情)はやってきます。下に“神様の四つの法則“を記します。ご参考になさってください。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛,聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」聖書・ Uコリント13章13節


【四つの法則】

第一法則
神はあなたを愛しておられ、あなたにすばらしい人生をあたえようとしておられます。(引用聖句は、聖書本文の前後もお読み下さい)
神の愛
「神は、実に、そのひとり子<キリスト>をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子<キリスト>を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)
神の計画
キリストは、「わたしが来たのは、羊<あなた>がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。(充実した意義深い人生)(ヨハネの福音書10:10)
それなのに・・・・
なぜ、人々はこの豊かな人生を自分のものにしていないのでしょうか?

第二法則
人は罪を犯して、神から離れてしまったので、神の愛と計画とを知ることも、体験することもできないのです。
人には罪があります
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ない。」(ローマ人への手紙3:23)
人は本来、神と交わりのできるものとして創造されましたが、神の命令にそむいて、自分勝手な道を進みました。それで、神との交わりが断たれたのです。意識的な反抗とか、消極的な無関心などにあらわれるこの自己中心が聖書のいう罪です。
人は神から断絶されています
「罪から来る報酬は死(神との交わりの断絶)です。」(ローマ人への手紙6:23)


この図は、聖い神と罪ある人間との関係を描いたものです。越すことの出来ないギャップが両者をへだてています。矢印は、聖い神や豊かな人生を求め続ける人間の努力、(善行・哲学・宗教等)を表しています。
次の第三法則は、このギャップを橋渡しする唯一の道について説明しています。・・・

第三法則
イエス・キリストだけが、人の罪を解決するお方です。あなたもイエス・キリストによって、神の愛と計画とを知り体験することが出来ます。
キリストは私たちの身代わりとして死なれました
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)
キリストは復活されました
「キリストは・・・私たちの罪のために死なれ・・・また、葬られ・・・三日目によみがえられ・・・ケパに現れ、それから十二弟子に現れ・・・その後、五百人以上の人々(兄弟たち)に同時に現れました。」(コリント人への手紙第一15:3〜6)
キリストだけが神への道です
キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。(ヨハネの福音書14:6)


神と人とをへだてているこのギャップに橋渡しをするために、神が何をしてくださったかを説明しているのがこの図です。御子イエス・キリストが、私たちひとりひとりの罪の罰を身代わりとなって受け、十字架の死によって、つぐないをなしとげてくださったのです。
以上の三つの法則を知るだけでは十分ではありません。

第四法則
私たちは、イエス・キリストを罪からの救い主、主として受け入れる必要があります。そのとき、神の愛と計画とを知り体験することができます。
私たちは、キリストを受け入れなければなりません。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)
私たちは信仰によってキリストを受け入れます
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことでなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2:8〜9)
私たちがキリストを受け入れるとき、新しい誕生を経験します。(ヨハネの福音書3:1〜8参照)
私たちは、個人的な招きによってキリストを受け入れます
(キリスト)「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
キリストを受け入れるとは、自己から神に方向転換し(悔い改め)、キリストが私たちの心の内に入ってくださり罪をことごとく赦し神が望まれるような人間に内側からつくりかえてくださることを信じることです。キリストが神の子であり、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったということを知的に認めるだけでは充分ではありません。又、感情的経験をしたとしても不充分です。自分の意志で、信仰によってキリストを受け入れるのです。
次の図は二つの人生を表しています。

A・自己中心の生活・・・
我=自我が心の王座を占めている。
+=キリストは心の外にいる。
●=生活の関心事は自我によって方向づけられ、その結果調和を欠いたり、欲求不満に陥ったりします。
B・キリスト中心の生活・・・
+=キリストが心の王座を占めている。
我=自我はキリストに導かれている。
●=生活の関心事はキリストによって方向づけられ、その結果、神の計画と調和するようになります。

この二つの内、あなたの今の生活を最もよく表しているのはどちらでしょうか?もし選ぶなら、あなたの人生としてどちらをお望みになりますか?
キリストを受け入れるには次のようにします。

あなたも今、信じて祈ることによって、キリストを受け入れることができます。
(祈りは、神に話すことです)
神は、あなたの心を知っておられるので、あなたがどんなことばで祈るかよりも、どういう心でも求めているかを見ておられるのです。次のように祈ることによって、あなたも今、キリストを受け入れることができます。
「主イエス様、私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死んで下さったことを感謝します。私は、今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私の全ての罪を赦し、永遠の命を与えて下さり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いて下さい。わたしをあなたが望んでおられるような者に変えて下さい。アーメン」
これは、あなたの心の願いを表しているでしょうか?
もしそうでしたら、今、祈りましょう。キリストは約束されたように、あなたの心に入って下さいます。
キリストが心の内に来られたことをどのように知るのでしょうか?
あなたは、キリストを心に受け入れましたか。黙示録3:20の約束によれば、キリストは今どこにいらっしゃいますか。キリストは、あなたの心の内に来て下さると言われました。キリストはあえて偽りの約束をするようなお方でしょうか。神があなたの祈りを聞いて下さったと、なぜ言えるのですか?(神ご自身と神の言葉は信頼できるからです。)
キリストを受け入れた人々に、聖書は永遠のいのちを約束しています
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちをもっていません。私が神の御子の名を信じているあなた方に対してこれらのことを書いたのは、あなた方が永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙第一2:11〜13)
キリストがあなたの心にいてくださること、そして、キリストは、決してあなたをお捨てにならないことを神に感謝しましょう。(へブル人への手紙13:5)キリストをあなたの心にお迎えした瞬間から、キリストはあなたの心のうちに住んでくださり、あなたに永遠のいのちが与えられました。神が約束してくださったのです。そして、神は決してあなたを裏切りません。
ひとつ大切な次のことも心に留めてください。

感情に頼ってはいけません。
私たちのよりどころは、自分の感情ではなく、神の約束のことば(聖書)です。クリスチャンは神ご自身と神のことばとは信頼に値するものであるという信仰(信頼)によって生きるのです。下の汽車の図は、事実(神と神のことば)と信仰(神と神のことばへの信頼)と、感情(信頼と従順の結果)との関係を表すものです。


客車なしでも汽車は走ります。しかし、客車で汽車をひっぱることはできません。これと同様に、クリスチャンは感情、または気分に頼って生活するのではなく、神ご自身と神のことばの約束は信頼に価するものであると信仰(信頼)して生きるのです。
キリストを受け入れたあなたは、今
自分の意志で、信仰によってキリストを受け入れた瞬間に、下記のことを含め多くのことが起こりました。

1. キリストがあなたの心の中に入ってこられました。(黙示録3:20、コロサイ人への手紙1:27)
2. あなたのすべての罪が赦されました。(コロサイ人への手紙2:13)
3. あなたは神の子どもとされました。(ヨハネの福音書1:12)
4. あなたに永遠のいのちが与えられました。(ヨハネの福音書5:24)
5. 神があなたのために、創造された大いなる冒険の生涯に入りました。(ヨハネの福音書10:40、コリント人への手紙第二5:17、テサロニケ人への手紙第一5:18)

キリストを受け入れることが、どんなにすばらしいか、おわかりいただけたでしょうか?この、神があなたにしてくださったことに感謝して今、お祈りしませんか?感謝することによって、あなたは神に対する自分の信仰を表明することになるのです。
新しく始まった人生を存分に、充実して生きるためには・・・・

クリスチャンの成長のために
霊的成長は、キリストを信頼するところから始まります。
「義人は、信仰によって生きる。」(ガラテヤ人への手紙3:11)
信仰によって生きる生き方は、生活の細部に至るまで神を信頼するようになり、以下のことを喜んで行うものです。


毎日祈りにより神と交わること。(ヨハネの福音書15:7)

神のみことばを毎日読むこと。(使徒の働き17:11)ーヨハネの福音書から始める

瞬間瞬間神に従うこと。(ヨハネの福音書14:21)

生活とことばでキリストを他の人にも紹介すること。(伝道)(マタイの福音書4:19)(ヨハネの福音書15:8)

生活の細かい点に至るまで神を信頼すること。(ペテロの手紙第一5:7)

日々の生活と伝道が聖霊によって導かれ、力づけられること。(ガラテヤ人への手紙5:16;使徒の働き1:8)

健全な教会における交わり
神のみことばは、私たちに「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合う」ように勧めています。(へブル人への手紙10:25)例えば、薪は何本も一緒にしておけばよく燃えますが、一本だけでおけば、すぐ消えてしまいます。他のクリスチャンたちとの関係でも同じことが言えます。もし今、教会に行っておられないなら、神のみことばが説かれ、キリストが重んじられている近くの教会に出かけ、牧師をお訪ねください。今週から始めましょう。そして、定期的に出席するようにしましょう。