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牧師紹介

横山 勝彦牧師

1951年 静岡県駿東郡小山町に生まれる。
1970年 18才の時クリスチャンとなり、ペンテコステ聖書学校および関西聖書学院にて学ぶ。
1974年 4月結婚 妻 由紀子
1976年 裾野市茶畑にてスウェーデン宣教師 ミルダ・ヤードストロム先生と共に開拓伝道を始める。
1979年 4月に牧師就任。
現在 裾野純福音キリスト教会牧師
関西聖書学院理事 注)2010年1月31日退任

以下は私がクリスチャンになった体験です。

日本人として通常の道徳観・倫理観の中で育ち「人様に迷惑をかけないように」と教えられました。幼稚園をしていた教会がすぐ側にありましたが、その塔の室はいたずらをしたり、だだをこねる子供のお仕置の室と聞き、それから教会に偏見を持ち、嫌いになってしました。
それから大学生になり、たまたま同じ下宿のクリスチャンと食事のみ共同生活を始めることになりました。
そこで初めて食事の祈りを聞き(見)、クリスチャンの観察が始まりました。
クリスチャンとそうでない人を見比べながら、クリスチャンに私が持っていない何か素晴らしい”光るもの”、”堅固なもの”を発見し、うらやましい気持ちになっていました。
そしてある時、その方の部屋に貼られた紙に書かれていた聖書の言葉に衝撃を受けました。

「人はたとい全世界を得ても、命を損じたら何の得がありましょう。自分の命を買い戻すために、人はいったい何を差し出す事が出来るでしょう」 (新約聖書 マルコ8章36節と37節)

それまでは幸福はお金、金儲けをして両親も楽にしてあげよう!一番大切なものは”お金”だと思ってきたのに ”いのち”だと聖書は言っている。
その時から私も少しずつ聖書に関係する本を借りて読むようになりましたが、思考の次元の違いがあって聖書の救いを理解するに至りません。
聖書はイエスキリストによる”恵みの救い”を語っているのに対し、私は”行いの救い”の思考であったからです。
教会にもうかがい、初めての人の集まりや、礼拝にも出席してみましたが、先ほどの次元で考えるので聖書のメッセージを心で受け止められず、頭で理解しようとしていました。
ところが私にとってもっとも理解できない”祈り”という中で救いを見いだしていきます。
クリスチャンは何時でも祈ります。それが同じ言葉の繰り返しではなく、会話をしているようにです。数名の学生さん達の祈りの和の中にいた私。クリスチャンではありませんのでその時は祈れません。
その方達が祈っておられる中で、心の中で自分の18年間を振り返っていたその時! 人の前に罪を犯しているか、いなないかではなく、創造者であられる神様の前に自分の心は清い(聖い)心か? という問いかけがやってきました。
その時、目の前が真っ暗になった思いで、 ”私は神の前に罪人である”という認罪意識が強く迫るのを感じました。
それと共に私の心の中に、二本の腕が見え、その手には傷跡があり、一瞬それが十字架に架かられたイエスキリストの手である事が判りました。
”恐い”というより”救われた”という何か暖かいものが体中を駆け巡っているようです。
その時、先輩のクリスチャンの方が、イエスキリストを個人的救い主として私の心に受け入れるお祈りをする助けをして下さいました。
これが私の信仰生活のスタートです。